何しても不満

高専中退。一年浪人して二〇二〇年から私立文系大学生。

7月9日

九州に激しい雨とのニュースが流れています。橋が折れて流されたり、民家が水に浸かったりとひどい有様です。私の母型の祖父母が温泉県に住んでいるので、昨日心配で電話しましたら、水害地域は車で二三時間行った所でのことだと話しておりました。それならばとひとまずは安心しましたが、そうはいえど何が起こるか分かりませんから、警戒は怠るなと伝えておきました。ただ何もなくてさえいつ死ぬか分からぬような年齢の彼らですから、水の流れを映すテレビにびっくりして死んでしまわないか心配です。何にせよ、かれこれ3年くらいは会っていないはずですので、死んでしまうより前に訪ねておいた方が心残りなく葬式に出られて良いでしょう。それに、従姉妹が向こうに住んでいますから、彼らに孫は珍しくもないでしょうけれど、母親には意識がおかしくなる前に会っておきたいのではないかと思います。

私も早くあんな歳になりたいです。それは年寄りが楽そうだとか、老夫婦が幸せそうだとかそういう問題ではなく、また死に近づきたいなどという意味でも全然無く、ただ自分の中にある若いエネルギーに疲れたからいっそ消してしまいたいというわけです。たしかに歳を取ればそれなりに体が弱って悩みの種になりましょうが、それよりも内面的な未解決の方が質が悪いと思います。第一、感覚の若い内に起こる絶望を耐え忍ぶことができた強者たちだけが年老いて行けるのです。現に私も少しずつ感覚の鈍っているのが自分で分かります。歳を取れば取るほど、かつては鋭敏だった生物的な自己に対する嫌悪が鈍くなって行くのです。年老いてからできる新しい悩みというのは、根本的ではありません。つまり生物であることを前提とした、人間的な悩みであったり、もっと限定的になれば親としての、子としての悩み、さらには友人、恋人としての悩み、そういう捨てて仕舞えばそれまでということがこの世の全てみたいに思えてくるのです。その末に選ぶ自殺は生きることへの拒絶ではなく、謂わば解決、忘却に匙を投げる行為に過ぎません。そういう意味で、死んで助かるというのは非常に人間社会に属した者の選びがちな逃避方法だと言えます。それは生物である自己を認識しなくなって行った結果、生物という前提を完全に忘れてしまって、自分は人間である以上に属する階層はないという自己認識をしてしまうことです。だから彼らの悩みは根本的ではないわけです。

しかし思春期の悩みはそうではありません。生物である自分を嫌悪するのが若いエネルギーでしょう。このように鋭敏になれるのは、実は感性の鋭敏さとはあまり関係が無く、自分を人間であると決定づける要素の少なさにあると考えることができます。つまり自己紹介をするための属性的なパーツが少ない間だけ、この実感を持っていられるのです。高校や大学、会社に属することや、誰かの親だとか誰かの愛人だとか、そういう自分以外で自分を説明することに誇りを持った時点で、根本的な生物的面を嫌悪する悩みは終わりです。その時点で私は人間であらざるを得なくなるわけです。「私は私それだけ」と言える間だけ、生物の根本的悩みに翻弄されることができます。可能だと書くのは、決して良いことだと言いたいのではなく、ただ可能不可能の問題であるからです。特別の価値を見出すのではありません。

以上のことを今考えて、私にはそもそも生きている自分が気持ち悪いのだと思います。このまま生活し続ける自信がありません。

 

普通の日記も書こう。

一昨日、東方紅魔郷が届きました。あみあみというオンラインショップで買ったら1000円くらいでした。amazonは高いので止めた方が良いと思います。なんか怪しいですし。

早速やってみたのですが全くダメダメだったので、VIPでスレ立てして質問しましたら、みんな色々教えてくれて3コンテニューでパチュリーまで倒せました。この調子で頑張ろうと、さっき(午前3時頃)やったのですが、疲労のせいか1面道中でさえ被弾する有様で、調子が良くてもチルノちゃんに勝った時点で一二機消費してしまうような具合だったので潔く止めました。ルーミアちゃん可愛い。攻略動画でも眺めてイメージトレーニングをしようと思います。