何しても不満

高専中退。一年浪人して二〇二〇年から私立文系大学生。

三月十日

 何が原因なのか、はっきりとは判らないけれど、昨日は朝から嘔吐が止まらなかった。母は、土曜に食った生牡蠣の食当たりだろうと言っていた。わたしはコロナウィルスだったら面白いと思った。「大阪府の一九歳無職がコロナウィルスに感染しました」なんてニュースに流れたら滑稽じゃないですか。しかし、面白いのはわたしだけで、家族からは大顰蹙どころか、追放される可能性すらあります。妹が受験を控えているので。あと、母にはマスコミを異常なほどに恐れる傾向があり、下手な報道を打たれたく無いようです。

 内科には行かなかったので、不良の詳細は不明ですが、なんとか回復は致しました。寝て、お茶を飲んで、吐いていたら、大抵の体調不良は治ります。多分。食欲が全く無かったので、昨日一日と、今日の朝で、計四食抜いた。その後に食った昼食の冷凍パスタは、死ぬほど不味かった。味が濃すぎる。その後に晩飯として食った、母のお手製豚カツも、褒められたものでは無かった。油濃過ぎる。普段はチキンラーメンにも塩胡椒を振るような味覚音痴ですが、飯を何度か抜くと、舌がまともに戻るらしい。味噌汁ですら塩辛く感じた。明日には普段通りの味覚に戻っていると良いけれど、いっそこのままの方が健康的ではあるかも知れない。不健康な方が、健康的な生活を送れるなんておかしな話だ。

 微妙な熱も出ていたせいか、今朝は変な夢を見た。わたしはまだ高専に在籍中で、かつ大学受験をし、失敗していた。しかも、実際に行く予定の大学よりも、かなりレベルの低い所で失敗していた。来年も高専に通いながら頑張れよと両親やなんやに励まされて、高専なんて辞めなきゃ無理だと絶望した。

 覚めたときは、高専にまだまだコンプレックスがあるのだとだけ思ったけれど、少し考えて、この夢はわたしの弱さの表れなのでは無いかと思った。それは、わたしは単に高専を辞めたかっただけで、新しくできたやりたいことなど嘘なのでは無いかと、今でも自分で自分を信じられずにいることにも関係する。わたしの一年の成績変化を見て、これだけ努力できれば本物だと評してくれる人もいるかも知れないけれど、わたしはそういう誤魔化しができてしまう人間なのだと思う。なぜならば弱いから。

 弱さというのは、努力できないことではなくて、努力するための何かに飢えていることだと思う。努力しなければならないのは判っているけれど、その情熱を何に注げば良いのか判らないから、とりあえず眼前にある、漠然とした目標みたいなものに向けて努力する。その目標を精査することも、必要を疑うこともなく、ただ盲信して自分の命の一部分を賭す。それで、いつの間にか自分の限界を超えてしまって、何かを拗らせてしまう。馬鹿みたいだと自分でも思うが、実際にわたしはそういう道を辿ってきたので、笑い飛ばすこともできない。

 努力して来なかったという事実が自分にあれば、自分ですら自分を慰められない。努力しなかった自分が悪いとしか考えられなくなる。しかし、努力して得た何かを持っていれば、失敗は不運に変わる。努力しても駄目だった人になれる。わたしのような弱い者にとって、努力は何かを成し遂げるための過程ではなく、自己擁護のための一手段でしか無い。努力しなかった人間とは、そこで食い違うことが多いように思う。努力しなかった人間こそ、どんな自分も受け入れられると確信を持った強い者なのだと思う。

 つまり、自分自体に価値があるという認識が、強い者と比べて、わたしは遥かに薄いのだと思う。だから、自分の考えた何かにも自信が持て無いのだろう。わたしが自信をつけようと思うと、まず自分に価値があると思い込まなくてはならない。しかし、こんなのは、図太い人間の典型的な思考で、とても意味があるとは思えない。親に酷く甘やかされ、全肯定されて育ってきた、ただの馬鹿にしか持ち得ない思考。それに、そういう奴らだって、自分の愚かなパーツに対して盲目になることはできないでしょう。判っていて、それでも「自分は絶対的に幸せなんだ。それでいいんだ」と手で目を耳を塞ぐのです。こんなのは絶対的幸福とは程遠い、駄々っ子の自己肯定でしか無いように思うのです。

 と、こんな思考を常駐させてしまっているから、きっと、わたしが自分の何かに自信を持つなど不可能なのでしょう。