何しても不満

高専中退。一年浪人して二〇二〇年から私立文系大学生。

金木犀

 歩いていたり、原付に乗っていたりすると、ふと季節の変わった匂いがしたり、面白い光景を目にしたりします。その度毎に文章にしようかなと思うのですが、何故か書かない。

 突然何かと言うと、少し前。金木犀の香りがしたよと言うだけの事です。金木犀の香りは、好き嫌いが分かれますね。わたしは好きです。

 どんどん寒くなる今日この頃。乾燥しはじめた空気があの甘ったるい匂いを運んで来ると、刺激的なくらいに郷愁を煽られます。思い出の匂いなんかじゃ生温い、あれは過去の匂いです。良いも悪いも引っくるめて、全部ダイレクトに再体験させるような、そんな匂いだと思います。わたしは嫌なことばかり覚えている性質がある。そう思っていましたが、やはり一般と変わらず、過去は甘い桃源郷なのでしょう。

 図書館の入り口脇に植えられた木や、駅の近くの公園の木が、小さなオレンジ色の花をいくつも付けていました。少し前までの、青い葉とじめじめした空気の匂いさえ懐かしい。知らない間にもう日本は秋で、また気づかない間に、今度は冬になってしまうのでしょう。そうして、また暖かい春が繰り返されるのです。

 でも、季節は繰り返すけれど、私の受験生活はもう、繰り返されることはありません。多分、受験が終われば二度と、河合塾の生徒たちの顔を見る機会もないのでしょう。そう思えば少し感慨深い。一期一会とはよく言いますが、そうは言っても人間同士、なんらかの関わりを作っているものです。そんな中で、わたしは誰とも交わっていない。芸術は孤独だと岡本太郎が言っていた気がしますが、孤独はすなわち芸術ではありません。孤独なわたしは、どこまで追求しても孤独なわたしでしかないのです。それなのに、そんな自分さえどこか豊かな色を含んでいるように感じるのは、秋のノスタルジーのせいでしょう。

 思い出に包まれて、学問の秋だと参考書をめくります。少し難易度の高い、英語長文の問題集を買ってきたのですが、存外解けています。早稲田大学の過去問にはやはり足止めを喰らいましたが、受けることはないので、あまり気にしないことにしています。現役の年齢で普通科高校に通えていたならば、少なくともこんなに次元の低い勉強はしなくて済んだでしょう。

 この数日は過去を思い出して、ああすればよかった、こうすればよかった、と後悔が絶えません。今の自分よりもよい自分が存在し得たはずだという妄想は、憐れの極地に布すべき愚考です。現存している全ては、現状を超えることも、下回ることもあり得ません。もちろん、空想は人間の素晴らしい特性ですが、それを慰み者にするのは頂けません。空想は現実と切り離すからこそ空想として存在できるのです。現実の悪境に互換すべきは、空想ではなく自己陶酔です。生きる価値を自分の内側だけに作り上げてしまうのですから、それは孤独というより孤立です。

 もし、本当に孤独の中に芸術があるとすれば、それは孤独な自分の追求によって生まれるものでしょう。では孤立には。孤立には、他との交わりによる刺激もなければ、自己を盲信し神格化していますから、反省もありません。追い求めるのは、火花のような快楽だけ。そんな本能に人間的な芸術性が含有されるはずがないのです。

 それでも現状を受け入れることのできないわたしは、精神的に柔弱なのです。こんな風に弱いことを認めることで、より一層自分が弱くなっている気がします。しかし、自己陶酔がなんだと開き直ることができるような、本当に弱い人間にはなりたくありません。

 そもそも、弱いからこそ弱さについてあれこれ考えるのかもしれません。